本「浦河べてるの家」から参照              前ページに戻る⇒
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わたしの中にはひとつの大きな疑問がありました。それは、毎日一袋五円のためにノルマに追いまくられ、幾ら頑張っても月、数千円の賃金を得るのが精一杯の作業です。この作業を一生続けるというのは、拷問に等しいものではなかという懸念が脳裏から離れませんでした。(本「浦川べてるの家から」)
それならこれを機会に、自前の商売をやろうではないかというのだ。ピンチをチャンスにしようとする逆転の発想である。
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そうしたイメージが定着しているせいか、精神障碍(しょうがい)者のリハビリテーションも、健常者と同じ様な生活ができるようになるための訓練のように考えれている。そのため、その人ができないことを列挙して、そのできない課題をまるで階段を一段づつ登って行くように、一つ一つ克服して行くための訓練をさせようとする。しかしそうした視点からは、その人のできないことばかりが目に映ってくる。それは精神障碍者を障碍のある部分と障碍のない健康な部分とに分断して、健康な部分だけ働きかけて社会復帰を図ろうとする手法に他ならない、つまり、健常者と同じようにできる部分だけが価値があるという考え方である。ほんとうは、病気を持った人の全体が、その人の存在であり、その人の人生であるはずなのに。
なぜだろう、わたしは深い疑問に捉えられてしまう。どうして健常者の生活に舞い戻らなければいけないのだろうか?競争原理に支配された健常者の社会で、そこで人と人と関係に耐えられなくて病気になったのではなかっただろうか。あるいは、競争原理に支配される健常者の社会にもう一度舞い戻ることが社会復帰なのだろうか。そこには、健常者の社会は正しくて、障碍者は欠落者だという評価があるような気がする。むしろ逆に、健常者の社会って、人間的にすごく歪み切った社会なのではないだろうか・・・・!
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Mさんはよく「精神障碍者は苦労する権利を奪われている」と言っている。それも、自分たちは良心的だと思っている人たちや、あるいは、精神障碍者に理解があると思っている人たちによって、苦労する権利を奪われているという。囲い込んで、面倒を見すぎているのだ。ある場合は、親が囲い込む。ある場合は、施設や作業所が囲い込む。苦労する権利を奪われることは、可能性も摘まれるということだ。人は病気であろうかなかろうが、生きていくにはさまざまな困難や苦労が待ち受けている。Mさんには、生きていくことそれ自体が苦労なのだという認識がある。毎日実感をもって生き生きと生きるためには、当然苦労することは避けられないはずだ。
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商売は、ある意味での人との出会いである。人とかかわることでしか商売は成立しない。そして、人との出会いの中から、新しい自分への気づきが生まれてくることもある。
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・・・・行商の目的は「ビタミン愛」の補給にもあった。
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商売の現場は、人と人との出会いの場でもある。その意味で、ものを売る行為は、高度なコミュニケーションの実現でもある。よく、精神障碍者はコミュニケーションが下手な人たちだと言われている。KさんにしてもMさんいしても、そんな人たちが、商売の現場でこんなに巧みにコミュニケーションを成立させている。
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健常者と呼ばれている人たちの社会も困難だらけで、健常者のこころにも、不安や悩みやつらさが一杯詰まっている。一方でべてるのメンバーの生き方を見ると、可能性があるよな!と感じさせられる。人間らいし生き方というのが見えてくる。つらいことも、苦労もたくさんあるかもしれないでと、楽しそうだなあ、生き生きしているなあ、明るいなあ、・・・・しかも、病気が回復するということと、人間らしく自分らしく生きて行くということが密接にかかわり合うという実感を通じて、この精神障碍者といういわれる人たちの体験に学ぶことが、この地域の人たちにとっても有益であるとの実感がわたしの中に芽生えはじめたのである。それは回復者の人たちの人生経験に深く学ぶことによって「健常者」といわれている人たちの人生がより豊かなものになる可能性への気づきでもあった。
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「社会復帰しなければいけないのは、障碍者よりも、むしろ医療や病院です。」と、K先生は明快に言い切る。医療者や看護士は、依然として病院の中に閉じこもったままである。病院が、社会から閉ざされて、孤立していることが問題なのだと、障碍者と一緒になって、もっとどんどん社会の中に飛び出して行くべきだという意見である。精神障碍者が健常者と一緒に、病気を持ったままで、そのまま人間らしく生きることができるのならば、それが本来的な意味での社会復帰であろう。

「悩む力」斉藤道夫著より
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この一文が書かれた1991年と今では状況がずいぶんちがっているかもしれない。しかし精神障碍者はいまだに共同住居や作業所で「主役」になっていないことが多いのではないだろうか。自立や社会復帰は、ほとんどがいわゆる健常者が唱え、計画し、すすめてきたことではなかったろうか。その健常者は親であり医者でありソシャルワーカーであり、役人や地域の人々であったかもしれない。けれど彼らの唱える社会復帰や自立は、つねに健常者を基準にしている。少しでも健常者に近づくこと、病気を治すこと、幻覚や妄想を取り去ること、立派な人間になって一人前に働くこと、そのようなことがイメージされている。そうしたことのすべては「病気であってはいけない」「そのままのお前ではいけない」というメッセージをあくことなく発信しつづけているのではないか。ところが、治せ、なくせといわれている病気はほかならぬ精神病なのだ。かぜや胃炎とちがって簡単に治せるような病気ではない。多くの人が一生をこの病気と共に過ごさなければならないのだとすれば、病気を治せ、健常者になれといわれつづけることは、すなわちその人が一生「いまのあなたであってはいけない」といわれつづけることになる。そうではなく、病気があろうがなかろうが「そのままでいい」という生き方があるのではないのか。