究極の解決策「主にあって休息する」
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青い森の写真家よりあなたへ
主にあって休息することは、現代の緊迫した時代を生き残る秘訣
前のページを読んでない方はぜひ読んで見てください。この前にでも後にでも!
私たちの目には見えなくても、存在する次元があります。科学者はそれを4次元や5次元と呼びます。私はそれを霊の世界といいましょう。あなたの心はこの世の3次元のものではありません。だからこそ、意識が頭の中にあっても時間を越えて過去や未来へと簡単に行ってしまいます。その時間の旅の中での心配や後悔、それがストレスです。人間の意識それはこの世の3次元のものはなく、両方の世界に機能するものです。
主イエスは神である太陽の光を反射する月だと表現しました。太陽を見つめたら、失明します。しかしそれを見つめることができなくても、地球は多くの恩恵を受けています。すべての命の源はみな太陽です。
心、霊の世界でも同じです。「神は愛」と聖書にありますが、神は霊的太陽です。それを見つめることはできません。しかしそこからたくさんの恩恵を受けます。
この世界の太陽は、地球にエネルギーを注ぎ、森を作り、気候をつかさどり、季節を生みます。命をつくり、養い、そして繁栄をもたらします。その光を月の反射のうちに見ることができます。そして闇は消え去ります。霊的太陽も同じです。精神的エネルギー(霊的力)をこの世界に注ぎます。心の愛する力を、そして愛からたくさんのものを生み出します。霊的太陽も季節をつかさどり、そして流れをつくります。それは歴史から人の心や人間関係まで、あらゆる精神的、社会的エネルギーの流れをつくります。その光は「愛」です。そして霊的月であるイエスは神なる霊的太陽の光を反射して私たちの心に注ぎます。それは命、生きる力となります。人は肉体のための力となる食物「パン」と、そして生きるための気力を得るための「心のパン」神の言葉を食します。体と心の両方に栄養を与えてくれます。この世のエネルギーと目に見えぬ世界のエネルギーは相互に影響しあっています。そして転換しあっています。人間の愛という目に見えぬエネルギーから、子どもという目に見える新しい命がうまれます。また、憎しみという目に見えぬ世界の負のエネルギーは、人を傷つける、戦争などの実際の世界の破壊を引き起こします。
心に戻りましょう。あなたの血が流れている体の中に心があります。、この世の生命活動をしている体の上にある脳の中に心という、目に見えぬ世界の臓器があります。その心と脳は異次元にありながら、互いに関係しあい、エネルギーが流れあっています。心が元気なら、体も元気であり、心が弱れば、体も弱ります。「病は気から」と昔の人は言いました。
神の愛というエネルギーは24時間注がれています。そしてそれはまさにあなたの真上から降り注いでいます。しかしあなたはそのエネルギーを心に吸収するために、電波と同じよう波長を合わせ、それを心へと導かなくてはなりません。太陽の真下に来れば、一番光を受けられるのと同じように。
霊の力で行うとは、このことです。瞑想し、主イエスにつながり、波長をあわせ、そして注いでもらうのです。あなたの衝動的な努力や、頭が考え付く、応急処置や、常識的行動や解決策といったものでなく、イエスを通して流れいる霊的世界の太陽である神の光を心に受け、そして温められ愛にあふれ、そしてそこからわきおこる力で物事にあたるのです。
あなたの肩にかかる重荷は重く、それをいつまでも抱えていたら、心も体も参ってしまいます。しかし主にゆだねるとはあなたの肉的な力や頑張り、忍耐、我慢といったものによって働くこととはまったく違います。
そのためにあなたはイエスから注がれる愛という水を受けるために、イエスの真下に来て、イエスという蛇口からあふれ出る水を受けるコップのようになり、注がれる水であふれかえるのです。そこからあふれ出て行くのが愛です。それはあなたの筋肉や努力や踏ん張りや頑張りから出て行くのではなく、ただあなたのコップからあふれ出てこぼれ注がれるものです。あなたには何の踏ん張りや、頑張りも求めません。あなたはただじっと蛇口の下にいたらいいのです。そうしてらあなたのコップはいつも満杯で、そして余分な水は外へあふれ出ます。
これが主にあって休息することです。蛇口の下に、滝の行者のように、じっと座り、心を休め注いでもらうのです。そしてあなたが満ちれば、あなたのコップから自然とあふれでます。それがあなたが他の人へ注ぐ愛となります。それはあなたから何も消耗させず、そしてあなたのコップに注がれる限り、とどまることなく愛は注がれます。
あなたを押しつぶしてしまう、とんでもない悲惨な状態にしてしまうと思い、見えていることは、本当にあなたの命や生活に決定的な危害を加えるものでしょうか?たとえば借金・・・確かに頭と心のの重荷です。しかしいのちを奪うものではありません。法的に適切な方法を取れば、その鉛のような重荷から解放されることができるのです。人間関係や恋愛の悩み・・・・それは今は底なしの地獄に以外の何者でもないかも知れません。しかし頭を上げてみてください。あなたが意識した人があなたの目の前でとてつもない巨人として立ちはだかって見えるだけかもしれません。ゆがんだ肉の眼で見、、肉の頭で考えるのでなく、ありのままを見てみましょう。そしてそのためには心に落ち着きが必要です。それが「信仰」という波風のない、静かな心です。
・・・そして重い病気への心配や死への恐れ、人間関係や、恋愛の心配、親のことや将来の経済的な不安・・・・どうでしょう・・・・
「信仰はキリストの言葉を聞くことからくる」とローマ書にあります。蛇口の下に来るとは、神である言葉の下に来ることです。聖書の言葉を読み、そして預言者を通じてこの世界に送られた神の言葉を読み、吸収することです。それが注がれることであり、イエスと心をつなぎ、波長をあわせ、そして霊的光、霊的エネルギーを注いでもらうことです。それが真の瞑想です。目を閉じて、ラジオのチューナーを合わせるように、イエスという放送局に周波数を合わせて、受信するのです。
あなたの仕事、生活、人間関係、家族、あらゆることでこのエネルギーを使えます。
プレッシャーやストレスとは重荷をあなたの筋肉や、努力、頑張り、踏ん張り、我慢で負うことから来ています。それが心身症や神経症の原因となります。しかし、それを主イエスにあって、休息し、負ってもらうとは、「脳に心配するなと命じて、過去の分析や未来の分析をやめさせ、イエスという蛇口の真下に来て、注がれ、あなたからあふれでるまで満ちたり、あなたの力ではなく、あなたからあふれでる愛の力で物事を推し進め、仕事をし、問題を解決して行くことです。」
あなたの偏桃核にある心配センサーが緊急警戒指令を出して直接反射的に体に働いて、目に見えぬ不安と恐怖心で心は満ち、血液は脳から腕に集中し、体を反撃の戦闘準備に入らせます。
しかし信仰の心は大脳に心配分析という命令を送る前に、前頭葉に蓄えられた、神のみ言葉と築かれた信仰の思考回路を働かせ、心配、恐れの感情が起こる前にそれを静め、そして前頭葉は穏やかに解決法を考え、それを実際の行動に導き、物事を成し遂げるアイディアをあなたの記憶装置・海馬から引き出します。
聖書や神のみ言葉からインスピレーションを得る・・・・あなたは映画を見た後、生きる勇気をもらったことはありませか!何か特別な本に出会い、心が満ち足りた気分になったことはありませんか!ある音楽があなたを奮い立たせ、あなたの限界を超える勇気をもたらしたことはありませんか!・・・・それと同じことだと思っていただけたら理解してもらえることと思います。
これは全く人間の常識から外れた、全くユニークな生き方、人生観です。しかしこれこそ究極のストレス解消法です。
切符の話をしましたが、このことであなたは信仰という切符を手にするのです。あなたの信じる心の手はその切符をしっかり持っています。そして時が来れば、あなたはあなたの行きたいと思った駅についているのです。(信仰とは切符と似ています。まだあなたがそこへ行っていなくても、切符はその決められた時間にあなたがそこにいることを知っていることです。とても確実な未来です。信仰とは、神の約束の言葉を切符として、それがそうなると信じることです。そしてそれを確実な未来として受け取ることです。そして確かにそうなるのです。「主にあって休息する」とはあなたがその切符を持っていると知っていることからくる、未来の確実さを確信することです。)だから目の前に問題やストレスやプレッシャーがあっても、その先の確実な未来を知っているので、あせらず、あわてず、そして踏ん張らす、心を穏やかに事にあたれるのです。
あなたがその信仰で支えてあげることで、あなたもストレスから解放され、そして心穏やかに休息した思いで、支え、助け、むずかしい状況でも愛することができるようになります。
このことは一夜にしては起こりません。忠実な神の言葉の学習や暗記、心に取り入れることから築かれます。そして何よりもまず祈り瞑想し、その日をはじめることから来ます。あなたのプラグをイエスのコンセントに差込み、いつでもエネルギーを受ける準備を整えます。あなたのイエスのコンセントから24時間エネルギーを受け取ることになります。
そしてそれはあなたのものの見方まで変えてしまいます。人間の自然な観点より、イエスの観点を選び、イエスの力と奇跡と愛により頼むようになります。そしてすっぱい経験や出来事の中にも甘いものを見つけるようになるのです。これは宗教的というよりも技術的なことといえます。技術を磨くために練習が必要です。
さあ主にあって休息することで
1、心にもっと平安がある
2、身体的痛みや苦痛が減る
3、肉体的にも霊的にもスタミナがつく
4、生活上のストレスが減る、そのため、肉体的健康が改善する
5、ストレスが減るというのは、あなたがより幸福になるということであり、あなたの周囲の人たちも幸福になり、あなたともっと暮しやすくなる
6、人々の資質やよい面や強さを見つけやすくなる。共に働くことがより簡単になり、より生産的になる
7、もっと忍耐がもてる
8、共に住む人たちへの愛がます
9、子どもたちに注ぐエネルギーがもっと持てる
10、自分の肩にこの世の重荷を負わせなくなるので、朝目を覚ますのが待ち遠しくなる
11、自分の仕事や、人に注ぎ込むことが楽しみになる
12.イエスが問題を対処するという信仰を持つ
13、心配しなくなる
14、あなたの霊がイエスとの時間を過ごす習慣を持つので、よい夢を見る
15、特にしたくないことでも、する信仰をもっと持てる
17、ストレスに関連する健康上の問題があるなら、もっと気分がよくなり、病院へ行ったり、薬をそれほど飲まなくても済むようになる
18、もっとリラックスでき、気が楽になる。あなたがそうなので、あなたの家族全員もそうなる。人生がもっと楽しくなるので、人々はもっと楽しみを持ち始める
変わる点
1、皆が、イエスにあって休息し、自分自身の力に頼ることが減るので、摩擦や誤解や人間関係上の衝突が減る
2、誰もそう急がなくなるので、互いにもっと荷を分かち合い、助け合う気持ちになる。それによって、兄弟愛の霊、仲間意識の霊が増す
3、その日を楽しみ、互いに愉快にやり、子どもたちと楽しくやる時間ができる
4、日々の素朴な楽しみへの喜びが増す
あなたの霊
1、より健康になり、強くなり、もっと励まされる
2、霊がリラックスし、オープンになるので、もっと早く学ぶ
3、周囲の人にもっと私を反射させる
4、人々はあなたの中にイエスの愛をもっと感じるようになるので、自然と他の人たちももっとイエスに引き寄せる
あなたの愛によって、あなたが支える人がイエスと近くなり、そしてその人にも同じことが起こります。
それが真の心の癒しやストレスからの解放や強さを培います。
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付記:スピリチュアル・・・とは、霊感、霊視や霊媒などと、また意味が違います。聖書でいう「スピリチュアル」・・霊のうちに歩むとは、目をつぶって顔を上げて、霊感によって何かを見たり、メッセージを聞こうと歩き回ることでしょうか?一日中ひざまずき、他の人たちとの接触を一切絶つことでしょうか?実はそれは地味なことです。スピリチュアルの反対に「カーネルマインド(肉の思い)」という言葉があります。それはあなたの脳が考えつく肉的な考えや、常識をいいます。目に見えるものしか実際に存在しないと考えることです。そこにあるのは極端になると弱肉強食、進化論の世界になります。進化論がまだ科学的に証明されていないのと同様に、スピリチュアルも証明されていません。しかし電子がなんなのかいまだに科学によってつき止められていなくとも、人類はそこから多くの恩恵を受けています。電子、電気の働きを理解してからそれを利用する人はいないでしょう。スイッチを入れて、あなたは電化製品を利用します。「スピリチャル」も同様です。それはあなたの脳があなたに示す、肉的な考えや計画、力に依存するのではく、主イエスに依存することです。彼の真下に行き、注いでもらうエネルギーによって生き、そして主に波長をあわせ、そこから受信することを思考として受けとめ、それに生きることです。それは肉的には最も効率が悪く見えます。また即座の結果がでるわけでもありません。しかし確実な結果と効果をもたらします。スピリチュアリティーとは、主イエスに波長があわせ、24時間接続状態であることです。外からの見た目には何の違いもありません。ただ頭の中ではあなたの脳はリラックスし、前頭葉が問題や仕事をこなそうとストレスに押されながら、フル回転して、最大の能力を発揮しようと働くのではなく、主イエスに接続した回線から次々とインフォメーションがダウンロードされ常にソフトがアップグレードされ、あなたの脳がフリーズしたり、クラッシュしたりすることがないことです。セキュリティーも万全であり、ネガティブな思考がわいてくることもなく、ウィールスによって機能が停止することもありません。あなたの仕事と求められることに応じて、必要なタスクとソフトとインフォメーションが常にダウンロードされるのです。あなの体は忙しくても、頭は落着き、そして穏やかであり、プレッシャーもストレス変換されることなく、仕事をこなし、日々の生活の問題を克服しながら生きていけます。それは主イエスと接続していること、そしてそれに信頼を置き、今あなたが利用している、コンピューターシステムと同じくらいに、それは働くと期待しているからです。それも自動的に!それがある意味で、信仰の姿勢といえます。